山崎豊子さん自作「運命の人」を語る

「運命の人」の単行本としての刊行がはじまりましたが、著者山崎豊子(やまさき・とよこ)さん(84歳)が自作について語っています。

目についたものがふたつありました。ひとつは、連載していた文藝春秋の2009年6月号、「『運命の人』と私」との談話が掲載されました。もうひとつが、2009年5月13日の読売新聞朝刊文化欄で、「沖縄の痛み 書き切る責務」として語ったインタビュー記事が掲載されました。

「『運命の人』と私」(以下「私」と略記)では、生まれ育ちから作家になるいきさつそして「『10年1作」の作家」の理由、「運命の人」書く動機(ひとつではありません)、書くことを踏ん切りをつけさせてくれた機会など、多岐にわたって語っています。じつに豊富な内容で、私も山崎さんの作家としての姿勢と思いについてそれらの一端をようやく知ることとなりました。ぜひ、多くの人に味読してほしいものと思いました。なお、作家になるきっかけが、毎日新聞学芸部の記者時代に、副部長井上靖に「調査ものの記事がいいね」と評価されさらに「君も小説を書いてみては」言ってくれたことだそうです。それから休みの日に執筆をはじめ、処女作「暖簾(のれん)」(1957年)を書き上げるまでに7年を要したとか。

「沖縄の痛み 書き切る責務」(以下「痛み」と略記)では、1971年の「西山事件」(外務省機密漏洩事件)を題材にするため事件の当事者西山太吉毎日新聞記者に取材を申し込みました。主人公のモデルです。小説では主人公の後半生は実在のモデルから離れ、山崎さんならこうするしかないとの設定とストーリとなったとか。これは「結末まで粗筋を決めて書く山崎さんには珍しいことだった」そうです。

「痛み」では、元記者の実名、実名での事件名が表記されていました。「私」では本文では「元記者のNさん」となっています。事件名も私は「沖縄密約事件」と覚えていました。

連載の最終回が2009年2月号、そこには末尾に、取材協力者、参考資料の長いリストが掲載されています。西山太吉氏の氏名もそこには明記されています。西山さんはひるますたゆまず生きてこられました。その時間の長さと重さも山崎さんの意欲をかきたてたものであったに違いありません。取材協力者のなかには渡邉恒雄氏の名前ものっていました。「運命の人」にはライバル紙のやり手の政治記者も登場していましたが、そのモデルとおぼしき人物にも取材の網は広がっており、渡邉氏も取材を受けていたことにはいささか驚きました。

1997年にはじめて訪問し、その歴史と実態に改めて目覚め、沖縄をテーマに書かなくてとの思いになったそうです。山崎さんには、戦時中の学徒動員で軍需工場で働いた体験もありました。「ひめゆり学徒隊」の少女たちはほんの少し年下の世代です。

「いわゆる船場もの以外の私の小説には、いつも戦争が影を落としています。作家として原稿用紙に向かう時、戦時中の体験や友の死が、私の心に張りついています。生き残ったものとして、何をなすべきかという思いが離れないのです。」(「私」)
「戦争の不条理、その暴力性が、私たちの世代の心と体にはしみついている」(「痛み」)

70代のなかばから84歳までかけて、年齢からくる体調不良ものりこえて、「運命の人」は完結しました。山崎さんは単行本化にあたって、「私」の冒頭で、次のように語っています。

「今『運命の人』を書き終えて、疲労困憊というのが、正直なところです。読者はこの小説をどのように受け取ってくれるだろうか、どのような審判を下されるのか、期待と不安が入り混じって、心地よい緊張感」に包まれています。」

必ずや私ばかりでなく、多くの読者の心にとどくものとして迎えられるものとなるでしょう。風化させてはならないものを語り継ぐ大事さ、必要性ももあわせて確認できるものとして。

余談ですが、私が山崎豊子にであったのは高校時代、父親の蔵書に「暖簾」があったことからでした。大学時代に週刊誌連載の「白い巨塔」それからいっっぺんに時間が飛んで、「大地の子」からが再びの出会いです。今回「運命の人」との遭遇から自分なりの喜びも勇気も与えられました。

以上 (与謝名 阿寒) 090517