卑弥呼の墓か 箸墓古墳

奈良県桜井市箸墓古墳、築造時期が西暦240−260年であろうという説を、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の研究グループが打ち出しました。埋められていた土器に付着した炭化物の年代測定からであるようです。

箸墓古墳は最初の前方後円墳といわれ、古いものであるため誰の墓だろうということで、様々に論議されてきました。魏志倭人伝(西暦280−290年に書かれた中国の歴史書)にでてくる邪馬台国(やまたいこく)の女王卑弥呼(ひみこ)の墓との説もあったようですが、それよりは後の建設とされてきたようです。ところが今回の測定による発表結果が正しいとすれば、まさに卑弥呼の時代の墓、少なくとも同時期の墓ということになります。

邪馬台国は、古い中国の歴史書にしか記載されていなく、短いものです。日本で文字(漢字やかたかな・ひらかな)が定着するのはずっと後で、日本の文書では当時の記録はありません。そのため、邪馬台国がいったい日本列島のどこにあったかで、明治以来歴史学、考古学での論争が続けられてきました。大きくいって九州説、畿内説があり、いろいろな理屈付けがされてきました。小説のタネになっているケースもいくつもあります。それは多くが倭人伝の文言解釈からでした。

しかし近年、炭素年代測定法など、資料分析の進歩が論争への問題提起を豊かにしているようです。考古学からのアプローチともいえましょう。

今回の発表がそのとおりなのかは、測定方法への検証がなされなければ、卑弥呼が生きていたころの墓かどうかは、まだ言い切れないかもしれません。しかしかってなく卑弥呼の時代に近づき、当時の時代と古代政権の様子にせまりつつある感じがします。

はるかあと、大和政権の手で、公式の歴史書古事記」(西暦712年)や「日本書紀」が作成されますが、それはいわゆる「神代」の時代からの記述となっています。当時の公式の歴史書とあっても、その記述は伝承もふくまれたものであり、どこまで事実を記載したものかは今は歴史学の対象です。

はたして卑弥呼の墓なのか、そうではないとすれば誰の墓なのか、また邪馬台国畿内にあったことになるのだろうか、長年の論争と不明点は大詰めにむかっていくように思えました。そして、時間的には先行する邪馬台国と後に姿wを現す古代大和政権とのつながりとか関係は、それももっと明らかになっていくでしょう。

明治時代に制定された「大日本帝国憲法」(明治憲法)では「万世一系天皇これを統治す(第一条)」となっています。君主が決めた「欽定憲法」(国民主権のもと議会でつくるのは民定憲法)に、古代の「神話」がそのまま盛り込まれたものでした。その明治憲法下では邪馬台国研究は困難があったそうです。現在、歴史や科学の目で、過去をふりかえることができるのは、それから比べると隔世のものがあるでしょう。

以上 (前荷 進) 090530