与謝野晶子と寛(鉄幹)夫妻、張作霖爆殺事件に遭遇

11月24日、日本経済新聞文化欄に、満鉄会理事の天野博之さんの「与謝野晶子 満蒙の旅 満鉄の招待を受けた夫妻、張作霖爆殺事件に遭遇」と題した文章を寄稿していました。

満鉄とは、今の中国東北部(旧満州)にあった鉄道も含めた日本の一大国策企業「南満州鉄道(満鉄)」のことです。日露戦争の勝利により、日本が権益を得て満鉄をつくり、支配のてこにもしてきました。太平洋戦争の敗戦により、今は影も形もなくなった満鉄ですが、そのつながりを絶やすまいと財団法人満鉄会があったのです。天野さんにより、私も初めて知りました。

満鉄会は、旧満鉄社員とその関係者を会員とする財団法人で、会員は今2200人とか。天野さんは、父親が満鉄社員だった縁から自分は定年退職後に会員となり、会員をつなぐ会報の担当者として4年目の方でした。

今年満鉄は創業100周年、記念日の11月26日、東京・品川のホテルでしのぶ催しが予定されているそうです。

1928(昭和3)年6月4日朝に、当時の奉天(現瀋陽)で、北京からの列車が爆弾をしかけられ、狙われた満州軍閥のトップ、張作霖が殺されるという事件がありました。関東軍高級参謀河本大作大佐らによる謀略事件であることは今明らかにされています。中国侵略の道をさらに推進する節目となる中国要人殺害でした。殺された張作霖の息子張学良が、後に国民党と中国共産党の抗日合作に役割を果たすことになりました。歴史の皮肉ともいう転回点を、被害者の息子がつくったのです。


6月3日の夜から奉天駅の階上にあったヤマトホテルに与謝野夫妻一行は泊まっていたのです。それは満鉄による招待旅行だったからでした。そして爆弾の破裂音を聞いたのでした。天野さんによれば以下のとおりです。

「駅に出入りする汽車の響きや汽笛のためにほとんど眠れなかった晶子は翌朝、東京で留守番する子供たちに手紙を書いた。そのとき『変な音が幽かに聞こえた。顔を洗ってゐる夫も其れを聞いた』という。」

また事件にちなんだ晶子の歌がありました。
   その半ば焦げたる汽車に将軍のもて遊びたる紙牌(しはい)の白し

天野さんが関心を持って調べましたが、晶子ご本人の文章は全集にもなく、さがすのにご苦労されたようです。偶然「与謝野晶子評論著作集」に行き当たったことで、1928年6月から12月にかけて週1回「満蒙の旅」というタイトルで「横浜貿易新報」という新聞に連載されていたことがわかりました。

その文章は、緻密で、森鴎外が「なかなか男でも言へないことを書く」と感心したとされています。

旧日本軍の関東軍が歯止めがきかなくなる状態の発端になった事件の現場近くに、与謝野晶子夫妻が居合わせたこと、私にもたいへん衝撃的なニュースでした。かの「君死にたもうことなかれ」でよく知られている与謝野晶子、その詩は日露戦争に従軍した弟を案じてのものでした。激動の時代を生き抜いていったことになります。

以上 (与謝名 阿寒) 061124