宮本顕治氏死去

6月18日宮本顕治日本共産党元議長がなくなりました。98歳の長寿、自分の信念での一生をまっとうしたといえるでしょう。1997年に議長を引退するまで、戦前から日本共産党員として活動し、戦後1958年書記長、70年より委員長、82年より議長と要職を歴任し、現在の共産党の骨格と路線に大きな役割を果たしてきました。さまざまに曲折を経た党の歴史の中で、戦中に非転向を貫き、戦後「自主・独立路線」を確立し、議会重視の活動に大きく舵を切り替えました。


評価は「人の評価は死してのち定まる」といいますから、厳密にはこれからでしょうが、昭和の歴史に大きな役割を果たした人であることは間違いありません。19日の新聞各紙朝刊、大きなスペースをさいて報道しました。朝日読売は記事のほかに主張で言及し、日経道新の1面のコラムで言及していました。大きな存在であったことをうかがわせるものです。それらからも歩みや生き様を知ることができます。

私ごとですが、大学生時代中国の文化大革命が起こりました。いまは当時の指導者毛沢東の奪権闘争と中国国内でも国際的にもはっきりしていますが、起こったときのどう理解するかにとまどったマスコミの報道がありました。そのとき、日本共産党が、文化大革命を間違いと断罪し果敢に批判していたことが印象に残っています。そのとき断絶した中国共産党との関係は、あとになって98年に修復されました。そのときのリーダーが宮本氏。筋を貫いたのです。

そんなきっかけから、彼が芥川龍之介の文学を論じた「敗北の文学」、妻宮本百合子との書簡集「12年の手紙」、百合子の「風知草」「播州平野」に目を通すことになり、戦前の生き様と戦後の歩みだしを知りました。それが戦後の活動ぶりに個人的にも注目していくこととなりました。

訃報をテレビ・新聞で知り、いささか感無量です。戦前に身命を賭して間違った世に間違いを指摘することを避けず、こうあるべきとの考えを一貫して生き抜きました。彼のような人がいたことも戦後という時代に大きなものをもたらしたと考えることはそんなにおかしなことではないでしょう。残したものは大きなものがあるようですから。

以上 (前荷 進) 070720