「過ちては改むるにはばかることなかれ」

3月11日の東北・関東大震災による東京電力福島第一原子力発電所の被災事故は、4月8日段階でも押さえ込んだ様子はまだ見られません。すでに過去の原発の2大事故、スリーマイルとチェルノブイリに比較しても、スリーマイル以上チェルノブイリ以下と言われている状況です。懸命に復旧に取り組まれている方々の奮闘心から祈らざるをえません。

私は、平均的日本人の原発に関する認識とくらべると、少しは余計な知識を持っているほうではないかと思ってきました。それが実感や納得とは違ったうすっぺらなものではなかったかと、今愕然としています。問題があり、それは非常に大きなことだけれども、まあなんとか大過なくやっていけるのではないかと勝手に判断していたのです。現実がそれをこっぱみじんに打ち砕きました。原発問題に関しては知識と行動がバラバラだったという意味で、あるいは頭では理解したつもりでいても体がすることはは逆の形だったという意味で、なっていなかったのです。知識が知恵にまで練りあがっていなかったともいえるかもしれません。

古代中国の思想家孔子の発言をまとめた「論語」の中の言葉に、「過ちては改むるにはばかることなかれ」(学而編)があります。さっと思い起こすこととなりました。また「過ちを改めざるこれを過ちという」(衛霊公編)もあります。お前はこれからどうするのだ、という問いをつきつけられました。

やはり頭に素直にいくしかない、行動をあわせるしかないということで、ということになるでしょうか。下手をしたら後戻りできないかもしれないくらいの原発列島となった日本、大変ですが、原発の新規凍結、既設のものは一歩一歩停止の歩みとならざるをえないのではと思うことになりました。その流れに身を投じていく、その声を多数派にするために努力する、こんなところです。

経済学者中谷巌氏(1942年生まれ)は、2008年に自著『資本主義はなぜ「自壊」したのか』で、これまで新自由主義市場原理主義の立場にたっていたことを自己批判しました。「勇気」のいったことだったと思っています。その本に目を通しましたが、私の読解力では、反省の痛烈さはわかっても、まったくそのとおりなのかまでは到達できませんでした。しかし「過ちては改むるにはばかることなかれ」の態度をいざぎよくとった事例として、頭に刻み込まれました。

これまで日本でも原発建設と運転には、賛成反対、推進中止などなど激しい意見がかわされてきたはずです。アエラ4月4日号にそれぞれの立場の学者などが、今回の事態に関してのアンケート回答をしています。同誌での表現を使えば、こういう事態になっても賛成派反対派は変わっていないとの総評です。内容を見るとたしかにそのようです。

私は容認否定両派のはざまにいるこうもりのようなものだったでしょうか。市民としての自らの責任という点からいうと、それをあいまいにしたまったくの日和見、自省することしきりです。

それと両者変わっていないといっても、これから何をどう判断していき、どうすべきか、それぞれにもつきつけられている課題です。どちらかが、「過ちを改める」ことになるのは間違いないでしょう。単に平行線ではなく、その間を埋めていけるものがあるならば、その努力も欠かせないかもしれません。幸い、今は発言意見は、記録しあとでいくらでもふりかえることができる時代になりました。そのことと率直な意見交換をすることで、煮詰まっていくものがあるはずです。

「歴史から学ぶ」視点をくわえれば、今こそ誰もがそれを体得できる時代に入っているのかもしれません。例えば水俣病問題何十年もの時間がかかりましたが、最近ようやく加害者被害者一定の一致点となりました。参考事例のひとつだろうと思っています。

気持を新に、現実を直視して、自己責任として自らのスタンスを決め行動していく、そのスタートの日にします。

以上 世話人 110408