藤原正彦「日本人の誇り」に天動説を思った

藤原正彦氏(お茶の水大学名誉教授)が4月に文春新書から「日本人の誇り」を出版しました。

数学者でありエッセイストとして知られる彼の最新作のようです。彼の著作は何冊か最近では「国家の品格」「名著講義」などで私も親しんできました。クセも個性もあるけれども、日本人としてのアイデンティティは何か、自分はこう思うという点では一生懸命な文章を書いてきました。エッセイもなかなか着眼のするどい面白いものを書いています。好印象を持っていた人のひとりだったのです。

今回の「日本人の誇り」、読みました。これまでのものとよほど飛び離れた内容でした。自国への誇りをもて、そのために過去の歴史をふりかえり、自国の文化を認識し、「過去の歴史貧しくても幸せな国」日本であったとされることに思いをいたせ、という点には、同感です。いつもながら歯切れがいいともいえることでした。一般的に精神論としてはです。

ところが、だから原因はこう、そしてこう今のゆがみを正すべきとなってくると、私としてはとても受け入れられない内容でした。「藤原さん、ちょっとお待ちください。おっしゃることは私から言わせれば無理筋ですよ。」です。

現状にいろいろ問題を見ていることはいいのです。しかし、その理由付けと対応策はまったくいただけません。「誇り」を取り戻すための具体的な道筋として、「第八章 日本をとり戻すために」の246−247ページで、①東京裁判の断固たる否定②現憲法の廃棄③強力な軍事力のの保持と日米同盟、が必要としています。

論理の飛躍、視野の狭さがあるようです。それにいたる藤原氏の理由付けも、説得力にかける誰かの意見をまるのみしたような強弁としか私には思えませんでした。こじつけを信じこんで自ら恥をかいているのではないかと、心配です。私でさえ、体験や知識で日本の近現代史をふりかえってみても、臆しない大胆さはあるものの、粗さきわまりない内容と受け止めざるをえませんでした。一見もっともらしい精神論で裏打ちしようとしているのがいっそう無残です。

ひっかかったところをいちいち論じてもしょうがないことなので、一例をあげておきます。東京裁判の否定として、1937年の「南京事件南京大虐殺)」についてもそれはなかったと熱弁をふるっています。1997年米国で出版されたアイリス・チャンの「ザ・レイプ・オブ・南京」について批判することからはじまってスペースをかなりとっての言及です。亜細亜大学教授東中野修道氏がよほど頼りになると見えて関連する言及が複数あります。しかし東中野氏が南京大虐殺の生き証人とされる中国人女性を偽者よばわりをし、日本で裁判を起こされ、敗訴したことは最近のことでした。また「ザ・レイプ・オブ・南京」は日本の出版社から日本語訳がでていますが、日本人が誰でも読めるようになったあと、東中野氏が改めて反証したとは聞こえてきません。藤原氏の認識を聞かせてもらいたいところです。

藤原氏は書いた動機を、「戦後66年にもなるのに、いつまでも右と左が五分に組んで不毛な歴史論争を続けているという状態は、日本人が歴史を失っている状態とも言え、不幸なことと思ったからです。」(はじめに)を述べています。数学者、エッセイストである藤原氏ですが、近現代史に関してはまったく思い込みだけの人であることを自ら証明しているようです。私は不毛な歴史論争が続けられているとは思っていません。藤原氏であろうとなかろうと、新たな一石は投じられるべきものです。しかし「意見」は、どうみても右のそれも極論の丸写しと申し上げるべきではないかが、私の印象です。戦前の神がかり日本の視点での戦後の否定論、これまでにもありました。その主張者として新に名乗りを上げたのでしょうか。

「偉そうなことを言う私も、本書により、これまで隠しに隠してきた見識の低さが白日の下にさらされるのではないかと恐れています。」(はじめに)と最初に言及しています。「お笑いください」ということなのでしょうか。人間としては正直な人なのでしょう。藤原さん、天動説ははやりませんよ。天動説、近現代以前に決着済みです。いまさらあなたがもちだすまでのないことですのに。

同じ戦中生まれ、ほぼ同世代として、生きてきた私の感想です。私は敗戦により現憲法の世の中になってよかったと思っているひとりです。その私からいうと「日本人の誇り」の中味は端的に言うと「日本人の埃」としか読めませんでした。以前からのお考えなのか、今そう考えるようになられたのか。どちらにしてもまことに残念だなあと思っている私なのです。

2011年7月22日 世話人